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メアリ・ステュアート

メアリ・ステュアートとは16世紀のスコットランド女王である。メアリは、ステュアート家の長女として1542年に生まれ、父の死により生後たった一週間でスコットランドの王位を継承した。
その後メアリは、16歳でフランスの皇太子・フランソワ2世と結婚したが、1年もたたないうちに夫が早死にしたためにスコットランドに戻る。その後すぐにカトリック教徒のダーンリ卿と再婚するが、その夫も次の恋人・ボスウェルに殺害される。このことが原因で、国内に反乱が起こり、メアリは幽閉され続ける暗い人生を送ることになる。
メアリ・ステュアートといえばイギリス女王、エリザベスとの争いが有名だが、負けず嫌いなメアリは幽閉されている間もずっとエリザベスを批判しつづけ、結果として処刑されてしまうことになったのである。

投稿者 kini-naru : 2005年09月30日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (2)

エリザベス1世

エリザベス1世とは16世紀の有名なイングランド女王(位1558~1603年)である。母が父に殺されるという過激な事件や、姉に幽閉されるといった厳しい幼少期を送った彼女は有能な女王になっていった。1588年には当時、一番権力があったスペインの無敵艦隊を倒すという快挙を成し遂げた。
両親のような失敗は絶対に繰り返さないとちかったエリザベスは、生涯独身を通した。また、彼女は従姉妹であるスコットランド女王・メアリ・ステュアートと仲が悪く、後に彼女を処刑してしまったことでも有名である(そのおかげでイングランドはスコットランドを併合することができたのだが)。

投稿者 kini-naru : 2005年09月27日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

リスト

リストとはハンガリーの有名な作曲家である。1811年10月22日、ハンガリー・ライディング出身。
1822年にウィーンに移り、カール・ツェルニー(指の練習曲などで有名)の弟子となる。1831年にヴァイオリンの鬼才パガニーニの演奏を聴き、「自分はピアノのパガニーニになる」といい、パガニーニのために「超絶技巧練習曲」などを作曲した。
他では真似できない素晴らしい技巧を用いた曲を沢山のこしたリストは、1886年7月31日に75歳で亡くなった。

投稿者 kini-naru : 2005年09月27日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

ショパン

ショパンとはポーランドの音楽家である。名前はフレデリック・フランソワ・ショパン
1810年3月1日、ポーランド出身。前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。子供のころからピアノのずば抜けた才能を示し、「神童」と呼ばれていた。
20歳のときにポーランドで革命が起こり、パリに移った。その後、大ホールでの演奏を嫌うショパンはサロンでのコンサートやピアノ教師をしながら暮らした。その際、彼の曲に大きな影響を与えた恋人、ジョルジュ・サンドと出会う。サンドとの交際、破局までの間に彼は、「英雄ポロネーズ」「幻想即興曲」といった代表作を作った。
彼はそのまま誰とも結婚せずに1849年10月17日に39歳という若さで肺結核のために亡くなった。
彼にちなんで、現在ピアノコンクールとしては世界最高峰と呼ばれる「ショパン国際ピアノコンクール」がある。

投稿者 kini-naru : 2005年09月27日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

キング牧師

キング牧師とは、1929年アメリカのジョージア州の黒人牧師の家に生まれる。
アメリカでの人種隔離の撤廃に大きく貢献した人物である。黒人に選挙権を与える公民権運動を行った。有名な公民権運動として、1963年8月28日にアメリカ・ワシントンでの25万人が参加したデモ。
「私には、今夢がある」と言った。
アメリカの黒人に大きな夢を与えた。

投稿者 kini-naru : 2005年09月21日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

厳顔

厳顔とは三国時代の蜀の武将。
巴郡太守であった彼は張飛と対戦するが、張飛の機転を利かせた策略にはまり捕らわれてしまう。
敗将である自分を手厚くもてなす張飛の義侠に感じ、劉備への帰順を決めた厳顔は、成都までの道案内と蜀将の鎮撫に務めた。
そして漢中争奪戦では、黄忠と老将コンビを組んで活躍をした。
『三国志演義』では黄忠と並び老将として描かれているが、『正史』では特にそのような記述もなく、厳顔が本当に老将だったか不明である。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

馬岱

馬岱とは馬超の従弟で三国時代に蜀に仕えた武将。
北伐や南征に従軍し活躍する。諸葛亮が五丈原で陣没した際に単独行動をとった魏延を、前もって授けられていた策により、切り殺した。
地味ながらも確実に諸葛亮の策を実行する馬岱にファンも多い。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (4)

法正

法正(176~ 220)とは、字を孝直と言い、最初は劉璋、後に劉備に仕えた。
益州の主劉璋に仕えたが英雄の覇気がない劉璋では益州を守りきるのは難しいことであり、乱世の中、蜀を治める事のできる人物は劉備をおいて他にいないと考えていた。そして張松らと共に劉備の入蜀を画策し、その益州攻略に大きく貢献した。
劉備の入蜀後はその最大の功労者として遇され、諸葛亮と匹敵するほどの発言力を得た。
諸葛亮も彼の才能を認めており、夷陵の戦いで劉備軍が大敗した時、諸葛亮は「法正が生きていれば」と深く嘆いた。
軍事指揮の面に関しては諸葛亮をも上回るといわれるほどの人物であった。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

?統

?統とは劉備に仕えた軍師で字は士元、道号は鳳雛。司馬徽に、 「伏竜(諸葛亮)、鳳雛のどちらかを手に入れることができれば、天下を手に入れることができる」とまで言わしめた人物。だが、容姿がすぐれなかったために孫権には用いられず、その後劉備に帰属し、その天才的手腕を振るう。
諸葛亮の天下三分の計に従い蜀を攻めるが、その途上、?城攻めの際に張任の策に嵌りあわれその生涯を閉じる。
?統が命を落としたその場所は落鳳坡と呼ばれ、現在も四川省徳陽市に地名として実在している。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

馬良

馬良とは字を季常と言い、中国三国時代の蜀の文官の一人で白眉の故事を生んだ名士である。これは、馬兄弟は皆優秀であったが、その中でも眉毛が白い馬良が一番秀でてたためにこのような故事が生まれたのだ。
劉備が入蜀した際には、関羽をよく補佐し荊州を守った。
「泣いて馬謖を斬る」の故事でも知られる馬謖の実兄である。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

徐庶

徐庶とは中国三国時代の武将で字を元直という。劉備軍団最初の軍師。
味方になって早々、曹操の部下である呂曠・呂翔兄弟や曹仁を軍略で破り、劉備に「軍師」の必要性を強く実感させた。
曹操の策で徐庶の母が捕らえられてしまい、やむなく魏に帰順する際に自分の代わりとして諸葛亮を推薦する。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

周倉

周倉とは『三国志演義』のみ登場する蜀漢の武将。架空の人物。
元黄巾族であったが、黄巾の乱が沈静すると同じ元黄巾族の裴元紹と山賊となっていた。関羽を前々から慕っており、偶然通りがかった関羽に懇願し配下に加わった。
水練達者で樊城の戦いの際には?徳を水中で生け捕りにするなど、関羽の片腕として活躍した。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

簡雍

簡雍とは三国時代の蜀の武将。字は憲和。のびのびとした態度で、性格は傲慢で無頓着だったらしい。劉備とは同郷の仲で、よく話し相手や使者を務めた。
劉備が袁紹の許を去る口実を作ったり、成都攻略時には、劉璋への降伏勧告の使者を務めたりと弁舌の徒として活躍した。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

陳登

陳登とは後漢末期の武将。字は元龍。陳珪の子。陶謙の死後は劉備に仕えたが後に曹操に帰順する。
劉備が治めていた徐州が呂布によって奪取されると、劉備を徐州の主に復帰させようと画策し、曹操のもとへ赴いてその家臣となり呂布討伐の先鋒を務めた。
父の陳珪とともに呂布討伐の最大の功労者である。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

糜竺

糜竺(?~221)とは蜀の文官。字は子仲。劉備の夫人となった糜夫人と、同じく劉備に仕えた麋芳の兄。
徐州の豪商で、妹を劉備に嫁がせた。そのため、劉備の信頼も厚く、徐庶が登用されるまで軍団の参謀格として活躍した。ただ、人を統率するのは苦手だったといわれ、一度も軍を率いる事は無かった。一方で弓馬の術に長け、糜竺から、子の糜威、孫の糜照まで全てがその道の達人だったという。劉備出陣中は本拠の留守役に徹することが多かった。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

孫乾

孫乾(生没年不詳)は、蜀の武将。字は公祐。徐州時代から劉備に仕える。
たびたび流浪の身となる劉備を迎えるよう諸侯を説得してまわるなど主に外交担当として活躍した。糜竺とともに若い頃の劉備をよく支えた。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

張飛

張飛(168?~221)とは蜀漢に仕えた武将で劉備・関羽と義兄弟の契りを結んだ.字は益徳(三国志演義では翼徳)。
蛇矛という一丈八尺の鋼矛を愛用し,劉備旗揚げ以来の忠臣で関羽にも勝るとも劣らない武力を誇る。
豪傑振りは折り紙付きで長坂の戦いでは張飛単騎で曹操軍100万の軍を退けたこともある。ただし粗暴さが玉に傷で、部下に対して傲慢に振舞うことも多く、張飛の死も恨みを持った部下の手によるものであった。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

関羽

関羽(162~219)とは中国三国時代の蜀漢の武将。字は雲長。身長九尺、髯の長さは二尺。顔はなつめのような赤色で堂々とした風貌であったという。劉備の義弟で知勇兼備の名将である。
義を重んじ、終生劉備に忠誠を尽くすその姿に『三国志演義』の中でもトップクラスの人気を誇る。
青竜偃月刀を振りまわし数々の強敵を倒す活躍を続け、張飛、趙雲、黄忠、馬超と共に五虎将軍に任じられる。
荊州を総督していたが、味方との仲違いや呉の武将陸遜の周到な策の前に敗戦を重ね、潘璋の部下馬忠の罠により捕えられてしまい、最後には呉王孫権により処刑された。
その人気から後に神格化し、今では商売の神として世界中の中華街で祭られている。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

劉備

劉備(161年~223年、在位221年~223年)とは中国、後漢末から三国時代の武将で初代蜀漢皇帝。
『三国志演義』では主人公として描かれ、義を重んじ、しばしば領国獲得の好機を逃してしまう。
関羽・張飛と桃園の契りを結んだり、三顧の礼で諸葛亮を軍師に迎え入れたりと、劉備の周りには当代随一の人材が集まってくる。これはひとえに劉備の人物としての魅力がなせるわざであろう。
劉備は皇帝即位後、義弟関羽の敵討ちとして呉と戦うが夷陵の戦いで惨敗、諸葛亮に後事を頼み、223年4月(旧暦)、永安と改称した白帝城において病没した。

投稿者 kini-naru : 2005年09月14日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

斉藤道三

斉藤道三とはいろいろな説があるが、山城国の生まれで北面の武士を代々世襲してきた松波家の出身と言われている。俗に蝮の道三と呼ばれる。
量り売りの油商人であった彼は一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、もし穴から油がそれたらそれをタダにするという街頭パフォーマンスをしながら油を売って、人気者となる。
美濃の有力者の1人長井家に仕官した道三は手柄を立てる一方次々と主君を排除していきついには美濃国君主土岐頼芸をも追放してしまった。
一介の油商人から、一国一城の主にまで登りつめた斉藤 道三は、まさに戦国時代の象徴の1つであるとも言える。
ところがそんな道三も晩年につまずいてしまった。家督を譲った義龍と不和を来たし、子供に攻められ敗死するという蝮の道三らしくない最後を迎えてしまったのである。

投稿者 kini-naru : 2005年09月13日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

黒田官兵衛

黒田官兵衛とは姫路城主小寺職隆の子で豊臣秀吉の軍師である。切れ味の鋭さにおいては、あの家康ですら及ばないと秀吉に言わしめた人物である。
官兵衛は幽閉されていた時に両足が不自由になってしまい陣輿に乗っての行動をしていた。
本能寺の変後の明智光秀との戦いは黒田官兵衛の智謀が光った一戦であった。この事件を主君秀吉の天下取りの好機ととらえた如水は、天下人の座につくには何を優先してでも信長の弔い合戦の勝者になることであると見抜いた。そしてかの有名な中国大返しを敢行し、山崎で明智光秀をみごと打ち破ったのだ。
この戦いにより一気に秀吉を天下人に押し上げた、この官兵衛の時流を的確に読む能力は名軍師と言って違いないのだが、皮肉にも切れすぎるその頭脳がかえって秀吉の不信感を買ってしまった。
官兵衛は参謀・軍師の枠におさまりきらない将器と野心を持ち合わせていたため、これ以降数々の武功を誇ったものの、秀吉から疎んじられてしまい論功行賞は少なかった。

投稿者 kini-naru : 2005年09月13日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

山本勘介

山本勘介とは武田信玄に仕えた軍師である。左眼は失明してつぶれており、右足は不自由、色が黒くいたって醜男、おそらく信玄もそんな容姿をした勘介を目の当たりをした瞬間は落胆の思いをしたに違いない。
ところが、そのような容姿と裏腹に勘介は信玄のいくつかの問いに明確に答え、言葉の淀むところはなかった。とりわけ信玄を驚かせたのは、勘介が諸国の情報に精通していた点であり、信玄の天下取りに見合うスケールの大きさを持ち合わせていたのは勘介をおいて他に見当らなかったのだ。
こうして信玄に召抱えられた勘介は豊富な情報に基づいた策を提案し、武田軍版図拡大に大きく貢献した。
信濃侵略を目指す信玄は強敵、上杉謙信と川中島で対峙する。両軍膠着状態が続く中、勘介は「啄木鳥の戦法」を提案する。これは一隊を上杉軍の背後にまわりこませ、驚いて出てきた上杉軍を挟み撃ちにする作戦である。
しかし、野戦では引けをとらない謙信はその戦法を見破り先手を取って武田軍になだれ込んできた。武田軍は大混乱に陥り、一時は信玄も討ち取られかねない危機にさらされた。
作戦失敗の責任を痛感した勘介は自ら敵陣に突入した。身に八十六箇所の傷を負って戦死する、壮絶な最後をとげたのである。

投稿者 kini-naru : 2005年09月13日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

小野小町

小野小町とは九世紀の前半から中ごろにかけ活躍した女流歌人で美人の代名詞になっている。『古今集』の十八首をはじめ、百首あまりの歌を残しているが、その出自や生い立ちもよくわかっていない。
伝えられるところによると、彼女は十八歳の時宮中に出仕し、宮中一の美女とうたわれ天皇の寵愛を受けた。
宮中を退出してからは多くの男性に求愛されたが、小町は全て拒みとおしたという。

投稿者 kini-naru : 2005年09月13日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

巴御前

巴御前とは木曾谷の土豪中原兼遠の娘で源義仲の愛妾。日本史上に残る勇ましい女性の代表格である。
彼女は色白で長い髪をした美女であったが、その外見に似合わず、大変武勇に優れ、時に凄まじいほどの戦いぶりを見せたという。平家との連戦のあいだ、義仲のかたわらには常に彼女の姿があり共に戦いつづけた.巴の父は義仲に源氏の血をひく娘をめあわせ、その間にすでに八歳の息子(義高)まであったが、巴にとっては問題ではなかった。義仲への彼女の愛は妻以上の純粋なものであったのだ。
源義経らの軍に敗れ、ついに残り五騎となった時、最後を悟った義仲は「木曾殿の最後の戦さに女を連れていたと言われるのも心外なり」と諭し、巴を郷里に帰らせた。これが義仲との最後の別れとなる。
このあとの巴御前は頼朝に召し出され首を斬られることになったが、彼女の死を惜しむ和田義盛によって助けられ、後にその妻となった。

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清少納言

清少納言とは『枕草子』の作者として名高い平安時代の才媛である。清原元輔の次女として生まれた彼女は、大変勝ち気で社交的な性格で、「しかるべき家の子女は一度は宮仕えして世間を広める必要がある」というのを持論にしていたと伝えられる。
一条天皇の皇后・定子にもその才能と機知を愛されていたが定子亡き後は、宮仕えの悲しいところではあるが、いかに才媛であろうとも宮廷内に居場所はなくなってしまった。
晩年の清少納言は、尼となって廃屋のような庵で一人寂しく暮らしたという。

投稿者 kini-naru : 2005年09月13日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

服部半蔵

服部半蔵(1542~96)とは徳川家康の天下統一を影から支えた伊賀忍者である。服部半蔵の本名は石見守正成であり、実は服部半蔵と名乗る忍者は一人だけではない。世間一般に知られている服部半蔵は、家康の家臣で「徳川十六将」の一人である、この服部半蔵正成のことなのである。服部一族は武田の甲斐忍者とすさまじい謀略戦を展開し、また、本能寺の変では兵を率いておらず孤立無援状態であった家康を無事三河まで護衛した。世に言う伊賀越えである。この一件以来、家康 は 服部半蔵 を忍軍の頭領に任命し、積極的に忍者を雇うようになった。
彼のこのような功績を称え、今も東京・麹町に“半蔵門”という名前が残っている。

投稿者 kini-naru : 2005年09月13日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (0)

徳川家康

徳川家康とは戦国・安土桃山時代の武将で江戸幕府の初代将軍である。
三河岡崎の大名松平広忠の子。幼名は竹千代。長い人質生活の末、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にしたのを契機に三河へ戻り、ようやく独立を果たした。
その後、織田信長と同盟関係を結び、その版図を広げていった。三方ヶ原で猛将・武田信玄と戦い、大敗したもののその怯むことなく立ち向かっていく姿勢が逆に賞賛され、東海一の弓取りと言われるようになる。
本能寺の変以降は豊臣秀吉が実権を握るが、家康はこれを快く思わない武将と結託し、1583年小牧・長久手にて秀吉と対峙した。この戦いは最終的に和解となったものの、家康の戦略に秀吉側は全く立ち向かう事が出来なかった。実力を十二分に知らしめたこの戦いにより、家康の地位は大きく上昇した。
秀吉亡き後、石田三成を関が原の戦いで倒した家康は、1603年江戸幕府を開く。そして1615年大阪の陣で豊臣方を滅ぼし天下統一を果たす。
今も、日光東照宮をはじめ東照大権現として各地に祀られている。

投稿者 kini-naru : 2005年09月12日 | 歴史上の人物 | コメント (0) | トラックバック (2)

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